第4回 「食べることと文化財を保護すること~生きるとは~」
「28年前の中国、まだまだ貧しい国でした」と当時の新疆の人々の暮らしぶりが目に焼き付いていると小島さんはいう。「その中でも北京をはるかに離れた辺境の辺境に位置する新疆クチャ、キジル千仏洞はさらにその先。大変な貧しさでした。日本の終戦後のような状態と言えば分かってもらえるんじゃないでしょうか」
私は縁あって20代で中国へ留学し、その後20年近くも付き合ってきた。そもそもここまでのめり込んだのには、母の話がきっかけだった。私の母は、小島さんと同じ世代。戦中、秋田県に疎開しそこで終戦。土地も何もなくただ、一時しのぎで避難しただけ身で唯一の頼りは貯金だけ。しかし、猛烈なインフレで紙くず同然となり、食うものも食わず、ボロを着て過ごしていたと、子供のころ良く聞かされた。「戦後の日本の貧しさとはどんなものだったのか。見てみたい」と思った。そこで当時、「日本の戦後の状態」と言われていた中国に興味を持ったのだった。
最近は少なくなったが、私が留学していた90年代、中国人たちは友人と出会うと挨拶で「吃飯了嗎?」という。これは、「ご飯食べた?」という意味。我々が挨拶に使う「やあ元気でした?」「いい天気だね」などと同じような使われ方だ。だが、この挨拶の根源には、もっと別な意味が含まれているのではないかと考えるのは、私だけではあるまい。
果たして、このような状況でどこまで文化財を守ることができるのか?守っても食えずに死んでしまえば意味が無い。かといって、守らなければ文化財はいずれなくなってしまう。日本の憲法にも保障されている文化的な生活。これを実行するには、ある程度の教育を受け、芸術やスポーツなどあらゆることに触れ、心を豊かにすることが重要な事である。でも、食べられなければ、それを守れ!と言っても・・・。この問答がぐるぐると私の頭の中を周り、解が出てこない。
そんな時、小島さんのように先頭に立ちまとめてくれる人が必要なのではないだろうか。みんなに声をかけ、自分ができることの範囲だけれども一人一人の小さな力が集まり、大きな力となる。そうやって守られたキジル千仏洞は、今、中国の人々にとって貴重なものを与えているはずだと思うのだ。そしてそれは、翻って日本の人々にもそして世界の人々にも有益なものをもたらしているのだと思う。
世界がみんな腹いっぱい食べられるようになればいい事だが、なかなかそうならないのが現実。そんな時、食べられている人がどう動くのか。頭の片隅にでも置いておきたいと思う。
筆者:永野浩史